わたしのDREAM BOYS

 

トニトニと呼ばれ待ち望まれていた、2020年。

とあるウイルスによりこの世界のあらゆるエンターテインメントが姿を変えた。そんな状況下で無事に幕を上げたひとつの舞台があった。

 

冬の帝国劇場、「DREAM BOYS 」だ。

 

2019年に引き続き、King&PrinceのWゆうたこと、岸優太、神宮寺勇太が座長を務めるこの舞台。
「DREAM BOYS」について、神宮寺担の視点から物語ひとつひとつを紐解いていく。

 

 

 

まず神宮寺くんが息を吹き込むチャンプこと、ジン。
彼が表現するチャンプは、孤高の存在だった歴代のチャンプに比べ、悠然とした印象が強かった。死に物狂いでベルトを狙う姿とは少し離れ、誠実で、紳士的で、俯瞰的に映った。それは演じていたのが神宮寺くんゆえに滲み出たものだったのだろうか。

 

「命尽きるまで抗うのさ」

因縁の相手こと、ユウタとのリベンジマッチ。
チャンプの入場曲である“Fighter”では、自らの左胸に強くグローブを打ち付けた。

高らかに歌うその姿は彼の芯と重なる部分があった。覚悟を決めたような表情は、培ってきたものの形を変え後世へ繋ぐのだと変えられない運命の中で藻掻くような。

苦悩を自身の中で留め、常に穏やかなチャンプ。その目の色が唯一変わる場面がある。一番弟子であるタイショウに、ガウンを脱がされるシーン。それは、波風無い凪いだ空間から、一気にエンジンが掛かるようだった。リングへ上がる彼の背中は、チャンプとしての威厳が存分に殺気立っていて、強くて、逞しかった。

彼は、時より何かを抱えているようだった。ボクシングチャンピオンとして生きたこの世界にどんな証を残せるのか。序盤に見せたこの葛藤のような表情が、物語を固めていく伏線であろう。

 

「苦悩のシーンがアドリブだった」

そう、神宮寺くんが語ったのは、初演からもうずいぶん季節が巡った、夏の終わりのことだった。

下手袖で、妖艶に舞う振りには、コンテンポラリーの要素が取り込まれる。
口元をゆっくりとなぞり、喉元へ降りていく繊細な手指、ガウンの下に覗く腕の筋。女性ダンサーたちを頭蓋骨に潜む敵に見立て、脳内の激痛と緩和を表現する。巧みに操り、操られながら、まるで磁石のように、その凄まじい痛みを訴えかけていた。

これが神宮寺くんのアドリブから成立していたなんて。脳天を撃ち抜かれた気分だった。そして、女性を起用していたのも、大正解だった。しなやかな細い曲線と対比することで、彼の鍛え上げた肉体をさらに際立たせた演出。憑りついた悪魔がすーっと身体中を抜けて行くように、打たれるジャブの低音と、自らの首を締め付ける危うさ。
神宮寺勇太が織りなす世界観にとにかく痺れた。そして、そこへ客席が飲み込まれていくのが気味悪いくらいだった。

 

「ユウト、グローブを取ってくれ」

ユウトは枕元にあるそれに手を伸ばす。
そしてチャンプの手元へ渡る。

青のグローブは病に倒れたチャンプに寄り添うようにベッドサイドに掛けられていた。ユウトの手を介して、チャンプの手の中へ、そしてまたユウトヘ。

もう一度、自分の手の中に収めたかった意味について考えた。グローブに刻まれたボクシング人生を思い返すかように、チャンピオンとして打ってきた一撃一撃を振り返るかのように、最後に、愛おしそうに握り締めた一瞬ののち、何かを決心した、そんな安らかな時間が込められていたように思える。

 

「これは俺がチャンピオンになった時のグローブだ」
「やるよ」

チャンプが譲った、青のグローブ。
そして臓器提供された、心臓。

チャンプを象徴する青のボクシンググローブと、心臓は共同体だったのかもしれない。

本編にチャンプの死やユウトへの心臓移植について直接的に触れるシーンこそない。けれど、あの病室でのやり取りこそ、その概念を象徴させる場面だったのではないだろうか。

チャンプの心臓がユウトの体内ヘ移植されたことにより、新たな心臓の主はユウトになった。青のグローブがチャンプからユウトへ譲られたこともしかり、彼こそが青のグローブの主となった。すなわちそれは、未来のチャンプになることまでもを示し繋がっていたと考えることもできる。

 

「ユウト、お前がチャンピオンになる日を楽しみにしているからな」

天国から見守るその眼差しは柔らかなものだった。

青のグローブと、
心臓と、
それから自らが描き続けた夢の続きを、

チャンプはユウトへ託したのかもしれない。
「未来のチャンピオンへのプレゼントだ」と。
劇場に響く鼓動とともに、彼はそう笑ったんだ。

 

「タイショウは?」

もうひとつ感慨深いドラマがあった。
一番弟子であるタイショウとの関係性。

ユウトが誤ってタイショウを刺してしまったことを打ち明けると、普段穏和なチャンプが思わず取り乱した。命に別状はない、と容態を聞き安堵した表情から、一番弟子として面倒を見る彼への想いが伺える。

しかし先に述べたグローブを譲るシーンで、タイショウが選ばれることはなかったのもまた事実で切ない。ユウトへの移植手術が成功し和らいだ雰囲気の最中、タイショウは、ひとり俯く。尊敬してやまない恩師との別れ、ともに夢追う仲間への想い。
手術の成功とは、そのどちらともを意味していた。

手放しでは喜べない、悲しみの狭間にいる表情をして見せた、岩崎大昇くんのお芝居にただただ惹き込まれた。

 

「みんな誰かのために生きている」
「出会いと別れを繰り返し、躓いたその先に素晴らしい場面を」

なら誰がチャンプのために生きたのだろう。
チャンプの死は正義だったのだろうか。

わたしもまた、その死を受け入れることができずにいた。どうにかチャンプに生きて欲しいと願ったけれど、死の世界へ階段を昇るあなたは、今までの痛みが全部晴れて楽になったような、穏やかな顔をするから、もうどうしようもなく、悲しくて、やるせなくて、少しだけほっとした。

前を向こう、と朗らかに歌う親子。夢見る若者たち。その姿を眺めながら、ぼんやりと、そんなことを考えていた。

答えは、まだ見つからない。やりきれない想いを胸に仕舞ったまま、カテコの拍手に包まれるのまでが、わたしの「DREAM BOYS」だった。

 

「だから俺たちに出来ることは何でもやろう!」
「手分けしてユウタを探して良いニュースをチャンプとユウトに届けてあげようぜ!」

畳み掛けるように暴動が起き、逃亡するユウタの捜索が続く中で、好きな台詞がある。

ヒダカの言葉だ。チャンプ陣、ひとりひとりの肩を掴み、揺らしながら訴えかける彼の姿に、胸が熱くなる。複雑に絡み合った人間関係の裏で、妬みや復讐が露わになっていく。

それでも「誰かのために」生きようとするヒダカ。情に厚いその存在は、明るく、生命的で、荒地に花が咲いたような、明確な打開策なんて持ち合わせていなくとも、人を巻き込んでいく絶大な力を持っていた。それはこの状況下ではあまりにも心強いものだった。


この台詞は、2019年の同舞台でも使われていた。正直、当時は何気ない一節だったと記憶している。

つまり、足繁く通った同じ演目でも、その時の自分には、するすると過ぎ去った台詞が、場面全体の印象を変えて、物語の行方まで左右する。舞台における「台詞」とは、そういう力を持った重要な一片を担っていると改めて思い知らされた。

それは、何度か耳にしていくうちに浮かび上がってくることもあれば、何度観てもハッとする、そんな台詞が生きる瞬間、と出会うこともある。

ひとりの人間が、演者として、言葉の細部から人格を創り上げることは、枠がなく、自由で、才能で、これだから演劇とは芸術なのだと、思わず心が躍った。

もちろん、演じていたのが、太陽みたいな浮所飛貴くんだったからこそ、さらに際立ったに違いない。そう思うくらいに、希望に満ち溢れ、温かく、素敵な台詞に磨き上げられていた。
浮所くんには完敗です。

「みんな誰かのために生きている。だからみんなの心が結ばれる、絆が生まれるんだ」

終盤、ユウタが涙とともに溢した一節。
この舞台の主題でもある。

チャンプが死者の門をくぐり、ユウトへ命が繋がる。この言葉を紡ぐ岸くんの震える声は、一生覚えていられる気がする。

みんなの心を結ぼう、と熱く尽力したヒダカが起こした行動も、まさにその本質を象徴するシーンだった。

「生き続けられる?」
「俺の心臓はまだ生きている」

劇中に、幾度となく出てくる「生きる」という言葉。

頭蓋骨に何らかの爆弾を抱えるチャンプにも、心臓病を患うユウトにも、結び付く台詞。重要な役割を担うコピーでもあり、随所へ散りばめることで、深く、記憶に刷り込まれた。

選手生命、病と闘う運命、映画の世界で名を残す偉業、「生きる」という価値は、人それぞれだ。でも、その全員が夢を追っていた。

リングに上がり続けること、健康に日々送れること、大切な人を救うこと。
チャンプ、ユウト、ユウタ、登場人物一人ひとりに、それだけの夢の物語がある。

その意味をどう考えさせたかったのか、何を気付かせたかったのか。全てを汲み取り、咀嚼できたとは思わない。でも、すこしでも、その背景を膨らませながら、自らの主観を混ぜながら、観ることに費やした時間は、誰よりも豊かだった。

 

 

 

 


「生きる」とは、夢を描き続けること。
わたしが見つけた、この舞台の答えです。

 

 

 

 

 


2020年のドリボはここからを無くしては語れない。

幕を上げたとはいえ、世間はまだ感染拡大の最中だった。大幅な構成のカットや公演時間の調整を求められる状況、ショータイムや挑戦者を削ぎ落としたことは、やむ終えない選択だったのか。

 

一昨年、密着取材していたRIDE ON TIMEで、その存続が問われるシーンがあった。

「ショータイム要らなくないですか」
「本人として何を観せたいか、君たちが何を観せたいか」

演出家、堂本光一氏が、ふたりに渡したオールには、どんな意味が込められていたのだろう。

座長に忖度しているような空気の中で、揺れた岸くんの瞳は、隣でただ静かに佇む神宮寺くんの顔色を伺ったようにも見えた。

年の瀬の帝劇へ通う日々の中で、赤幕を掴み奈落へ落ちていくドリボが、"挑戦者で締めるドリボが、日に日に恋しくなった。幕間がなくなり、簡略化された赤幕。プロジェクターを駆使した演出は画期的であった。しかしあの場面こそ、ドリボの真骨頂だから。変わらずあって欲しい。

幻となった"挑戦者"は、エンドロールに相応しかった。バッドエンドとも、ハッピーエンドとも言えないドリボ特有のあの慈悲溢れる空間に惹き込まれたまま、観客は戻れなくなる。長い長い夜が明けた、波静かな客席に響き渡る、いわば主題歌。悲しみの淵に立たされたまま、幕が降りていくの見守ることしか出来ない神宮寺担のわたしとしては、なくてはならない存在だった。

いつかあのドリボがまた観られますようにと、丸の内仲通りのイルミネーションに願った。

 

 

 

 

千秋楽のカーテンコール。

涙を溢した岸くんと、
その隣で凛と微笑んだ神宮寺くん。

肩の荷が下りたように、晴れ晴れとやり切ったふたりの表情は、胸の奥をぎゅっとさせた。真っ赤な薔薇の花束を抱えて、感極まって言葉に詰まるゆうたも、なんでもないような顔して挨拶をするゆうたも、どちらもWゆうたらしくて。

初日まで本当に幕が上がるのか半信半疑だったね。無事に新年を迎えた矢先、緊急事態宣言の再発令により続行が危ぶまれ、この公演が最後かもしれないこの公演が最後かもしれない、何度も覚悟を決めて舞台に立つ日々だったのだと、のちに彼らも語った。

コロナ禍にあり、臨場感の中に自分が入り込める世界がこの東京のどこかにあるという安心感は、間違いなくあの年のわたしを救ってくれていた。
いろんなものが失われて、戻らないものもある世の中になっても、ドリボが帝劇で公演されていることは精神的にも大きな支えになっていた。

きっと数え切れないほどPCR検査を受けて、休演日には、それぞれのグループや個人の外部の仕事で、常に気を張っていたはず。演者、関係者を含め、期間中一人も感染者を出さず、全公演幕を上げたこと。座長ふたりの尽力だけではなく、誰ひとり取りこぼさずに作り上げたカンパニーがあってこそだったと思う。

大袈裟といわれるかもしれないけれど、命を削って舞台に立ち続けてくれてありがとう。
本当にがんばったね、お疲れ様でした。

Show must go on

エンターテインメントを届けることを、
続けてくれてありがとう。
来年こそは、客席を華麗に羽ばたけますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その一言で結ぶつもりだった、本当は、
でも、それは叶わなかった。

神宮寺くん、岸くん、
「DREAM BOYS」二年間、お疲れ様でした。

岸優太と、神宮寺勇太が、
ユウタと、チャンプとして。

あの神聖な「DREAM BOYS」を、まさか自担が引き継ぐだなんて、それをこの目で観られるだなんて、いまだに幻みたいな本当の話で。

その名の通り、夢のようなひとときでした。

帝劇の舞台に立つ神宮寺くんはやっぱり特別で
胸に手を当て、美しく品のある三方礼。
客席、一人ひとりと目を合わせるように見渡す目線。
そして、最後列まで置き去りにしない演技。

前列に入ると表情の豊かさに圧倒されました。
近くで見ると大袈裟なくらいの表情こそが、二階席の端まで顔を伝えるんだと知りました。
舞台期間中にだけ、神宮寺くんが背負う覇気みたいなものが大好きで、それに夢中でした。

神宮寺くんは、少年隊の錦織さんの言葉をすごく大事にしていましたね。

「舞台は"船"だと思ってと言って、船にみんなキャスト全員が乗っている。ゴールまでみんなでやり抜くっていうのが舞台だ」
「舞台は船の上と一緒。出航したら一人も欠けずに船の上で成長していくんだ」

ふたりが舵を取っていた船は、まだまだ航海の途中だと思い込んでいました。あまりにも穏やかな波で、その揺れに気付くことはなかったです。

ツアーの傍ら、地方公演の楽屋でバックハグしながら岸くんにギター教えていた神宮寺くん、初夏になると徐々にがっしりしていく神宮寺くん、休演日明けに太もも裏にテーピングを隠しながら公演に出て、別仕事の陸上ロケで負傷をしていたと漏らしたのは翌年、なんてこともありましたね。

想像していたよりもわずかだったその時間は、たからものになりました。本音を言うと、寂しい気持ちでいっぱいです。

 

今年も有楽町に秋がやってきます。

空高い秋晴れを見るたび、イルミネーションの支度をする街に出会うたび、ドリボがあったあの季節を思い出すことでしょう。

リングにキスしてくれるチャンプも、「家に帰るまでがDREAM BOYSです」ってお見送りしてくれる神宮寺くんもいない秋を。


あの秋、亡きジャニーさんに代わりとして見守ってくださった光一くんのお言葉。

「例えば岸と神宮寺がいつかまた演出で帰ってきたり」

ああ、未来は明るいな、と。この先、個人に外部の舞台に飛び込んできたり、物語を動かす側を担うときが来たりするかもしれないね。

この言葉をお守りに、そんないつかの季節を楽しみに、この秋に馳せてゆっくり過ごすことにします。


 


いつかまた、帝国劇場で会いましょう。